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修了生論文

丸山物産株式会社の歴史

東京校 (T-college) 菊池 和博 (丸山物産株式会社 )

はじめに

当社は昭和17年ごろ、創業者・菊池博寿(現会長)が砂利採取業と材木業を始め、現在創業75年を迎えようとしています。これまでに幾度かのピンチとチャンスを経験してきました。

ここで当社の歴史を振り返り、どのように今まで歩んできたか検証をして、今後時代が大きく変動しても、判断の指針や行動の参考になることを見つけたいと考えました。

会社は30年間継続できることは5%以下と統計に出ています。さらに30年間過ぎるともう小数点以下になることもわかっています。さらに30年間過ぎると推して知るべしです。当社は30年ごとに時代を区切り、時代ごとに検証しました。

 

●.創業者・菊池博寿(現会長)の生い立ち

茨城県下小川村(現常陸大宮市)に大正11年に生まれ。家族をやしなう立場の6人兄弟の長男でした。家は電気代が払えず電気が時々止められる事がありました。山間地の働き場が少ない寒村で育ちました。尋常高等小学校を上位で卒業した後、家を守るため起業家を目指しました。親分肌の性格で、何にでも興味を持ち好奇心旺盛な人でした。

 

●二代目・菊池和博(現社長)の生い立ち

茨城県山方町(現常陸大宮市)に昭和33年に生まれ。幼少の頃、石油販売と砂利採取業の経営により、家が忙しくて、子守をする人がいないので、砕石運搬用のダンプカーの助手席に朝から乗り込んで一日中ダンプカーに揺られている事が多くありました。三人姉弟で末っ子の長男です。甘えんぼの性格で、人見知りが強い性格でした。県立水戸工業高校を卒業しました。

最初は家を継ぐ気がなく、東京に出て3年間生活しました。昭和57年24歳に東京から戻りました。自分の夢やぶれて帰郷し跡を継ぐも、会長時代の従業員との意見の対立などもあり、なかなか思うように仕事に取り組めませんでした。

バブル崩壊とコンクリートから人への変革により、5年間の連続赤字を経験しました。5年前長男が大学を卒業し、修行をするため知り合いの同業他社大手に就職して会社の跡を継ぐ意志を見せました。私はそのころから自分に奮起する力を入れなければと思い始め、体の健康を高めるためにウォーキングスクールにも通い、昨年株式会社F&MのTカレッジに入学し、自分の意識改革に取り組みました。

平成14年代表取締役社長就任。

 

●三代目・菊池大志(現常務28才)の生い立ち

茨城県山方町(現常陸大宮市)に昭和63に生まれ。四人兄妹の長男。まじめで素直な性格、千葉商科大学卒業。卒業後3年間同業他社大手である明盛興産に就職。

研究熱心で、岩石の性質を専門家に聞きながら調べることを得意としています。

平成26年常務取締役就任。

 

 

丸山物産・最初の30年の時代(昭和17年~昭和47年)

当社初代社長・菊池博寿は、学校を卒業した昭和13年・16歳の時に、村のそばを流れる久慈川で、砂利を背負って船に運ぶ仕事を手伝いました。以前からこの地域では砂利を川から採取して、周辺の土木工事用などに使う砂利を取るための組合が有りました。多い時は50人ぐらい作業していましたが、人力での作業なのでやがてじり貧になり組合活動も下火になってきました。

昭和17年20歳の時、組合は菊池博寿が引き継ぎ代表となりました。当社の初めての会社の形が出来ました。引き受けた会社の改革はまず川から砂利を上げる時に、人の力に頼っていたのを、「トロッコとウインチ」を採用してコストダウンと大幅な効率化を計りました。人も30人以下に減り、輸送では下小川村でも初めて「トラック」を2台導入し、輸送量も増大しました。下小川駅から「国鉄の貨車」を利用して遠方にも運べるようにしました。貨車を利用したのは、久慈川流域では初めての試みでした。

一方では、木材の流通にかかわりながら、昭和17年20歳のとき森林組合業務代行に任命され、販売の窓口として木材を大量に扱えるようになり、組合の製材所の工場長も3年間まかされました。この期間は当社にとって将来の資金を蓄えるとても大事な時期になりました。戦時中は、本土決戦の為の材木資材徴用の軍属として働き。戦後は復興のために東京方面に木材を貨車で運び出しました。

終戦直後の昭和20年23歳の時、材木仲買の仕事を手伝っていた、材木業者の小野瀬金物店の娘・美都子(現監査役)と結婚しました。結婚式は、120名以上で挙行され三日三晩飲み明かす盛大なものになりました。丸山という屋号は、その当時に使った材木に押す焼き印が名前の由来のはじまりです。結婚の年に、会社・丸山物産を設立しました。

茨城県の久慈川流域は、復興用砂利資材としても、復興用材木資材としても東京の全使用量の約半分近くを出荷したと記録されている大供給地帯でした。

創業時の当社は、経済学者ヨゼフ・シュムペーターから引用すれば、イノベーションの重要な5つの指標のうち「新しい生産手段」、「新しいマーケット」、「新しい組織」の3つをすでに含んでいました。

昭和30年には念願の砂利採取機械で通称「チャンガラ」を導入しました。すでに久慈川流域には、30社以上の砂利業者がひしめいていました。

昭和30年には、有限会社丸山物産に変更しました。このころすでに木材販売からは、手も引いていました、外材が本格的に入ってくるのは昭和36年からでした、昭和45年に外材のシェアが50%を上回り国産材は大打撃を受けました。当社は先手を打ち厳しくなる時代の前に木材販売の撤退を完了していました。

昭和33年には、地元出身の地質学者の協力で、近くの山を確保して砕石事業に乗り出しました。当社はそれ以降徐々に、砂利採取事業からは手を引く方向になります。久慈川では、最も早く砂利事業に進出し起業しましたが最も早く撤退することになりました。この後昭和47年に河川の砂利採取規制が発動し、これ以降河川の砂利採取はほとんど出来なくなっていきます。当社はここでも先手を打った形になりました。

砕石事業は順調に伸び年々設備投資をして、拡大傾向になりました。次の大変動の時代への対応する準備である、生産をコストダウンできる砕石プラントや資源の確保は出来ていました。

ここでイノベーションの指標である残りの要素で、「新しい製品」、「新しい原料」、さらにまた、「新しいマーケット」、が入りとりあえず指標5つをすべて満たした形になりました。

砕石販売は、高度経済成長の波に乗り昭和47年まで、常に右肩上がりの破竹の勢いで伸びました。創業は苦労の連続でしたが、どんなに苦しくても来年は必ず良くなるという時代背景で、設備投資が続き経済的にはその日その日の自転車操業が続きましたが、決定的なピンチはなく最高に恵まれた30年間でありました。

 

 

丸山物産・次の30年の時代(昭和47年~平成14年)

昭和46年にニクソンショックが起こり、景気の動向が危惧されていたが、当社の砕石業としては落ち込みは少なくてすみました。昭和48年の第一次オイルショックでは燃料は高騰しましたが、砕石の需要は横ばいで推移しました。昭和54年の第二次オイルショックでも燃料は高騰しましたが、第一次オイルショックで学習したので、影響はより少なくてすみました。

そしていよいよ昭和55年ごろからバブルが始まり、砕石の需要もどんどん多くなり、売り上げも伸びてきて、平成2年にはピークを迎えました。当社も史上空前の売り上げを達成しました。

平成3年になるとバブルがはじけ、その後はどんどん売り上げは、下降線になりました。

平成4年に将来の効率的な砕石生産を目指して、先進的なプラントを作りましたが、決定的に役立つことがなく、有効な設備投資とはいえなかったです。

結果的にバブル以降の景気後退期は、将来に向けての有効な手を打つことが出来ませんでした。

非常に激しく動く30年間でしたが、ほとんど身を任せている状況が多く、やるべき事があったのかどうかも検討もされず、ただ忙しく過ぎていく時代でした。

 

 

丸山物産・三度目の30年の時代(平成14年~平成29年)

平成14年、菊池和博が当社の代表取締役社長に、菊池博寿は会長に就任しました。

バブル崩壊から13年経過した平成14年でしたが、底なしの不況感がありました。いつまで続くのかわからない不景気でした。平成18年から平成22年は丸山物産の歴史の中で最も過酷できびしい期間でした。ほぼ赤字が連続5年間続いたのです。先代からの申し送りで借金しないのが会社の「社是」でしたので、社員の給料確保のため、役員の給料を大幅にカットしました、ボーナスは無しです。本来ならば借り入れをして、役員の給料カットを防ぐのが当たり前の解決法ですが、あの当時は、数十年借り入れをしていないと、借入の方法もわからないような、借入自体がむずかしい体質でした。

不況打開策として、平成20年に「リサイクル事業」に乗り出し、経営はそれ以降は落ち着きを見せ始めました。その時点ではまだ周辺の砕石業者で、リサイクルを始めたところはありませんでした。

平成23年「東日本大震災」が発生しました。当社のある茨城県は、死傷者こそ少なかったのですが、震度6強と宮城県と同じ震度で、全半壊3万件以上の被害が有りました。

震災後すぐに湾岸の堤防応急修理として、毎日ダンプカーで50台以上の緊急災害発注などがありました。砕石は平成23年後半から平成28年までは、震災復興需要が徐々に増えて赤字もどうにか回復し、売り上げ増になりました。リサイクルプラントでは、震災で排出された瓦や塀などの受け入れが出来売り上げ増につながりました。経営が苦しい中でのリサイクル事業進出でしたが、功を奏した形になりました。

震災から5年を経過して、震災需要も落ち着きを見せ、今後の経営の為に手を打つ必要が出てきました。私が家業を継いでから34年間は、不況の時も一度も銀行借り入れをしない優良企業を保ちました。最近信頼している知人から借金もしなくて面白くない会社だねと指摘されました。現在の本業を大事にしながらも不況の再来を想定して、本業を補てんする三本の矢として、新事業に取り組む必要が有ります。新事業は精査しながら、慎重に大胆に進めたいと考えています。

3年前に息子が修行先の会社から戻り、常務として就任しました。他社からの情報を得る上では、とても有益で本人もいろいろ勉強しているようです。後継ぎとしての成長を期待しながら、社員も成長できるよう会社全体を見直す事を開始しました。

 

 

まとめ

最初の30年は、創業の勢いもありましたが的確な判断、先見性を当社の初代社長は発揮し、当社の基盤を作りました。

次の30年の半分は、右肩上がりの好景気、その後半分はバブル崩壊で下降線でした。まさに中国の歴史書、貞観政容の太宗の言う言葉から引用すると、「創業と守成いずれが難きや」の守成の時代にはいりました。守成のむずかしさを学び、充分頭に入れながら行動するよう考えます。

私と会長の意思疎通が足りなく、行動に反映しなかったのは事実です。次の30年には息子の時代になります、社長として次につなげる為に、息子との情報の共有と方向性の一致を計りながら会社経営に臨んでいきたいと考えます。

借り入れに踏み切れなかった当社ですが、F&MのTスクールの授業で銀行との付き合い方を学び、積極的に借り入れが出来ることに、大変自身がつきました。

今は、三度目の30年の時代ですが、本業を大事にしつつも新しい事業を見つけ、当社が四度目の、あるいは五度目の30年の時代を迎えられるように、精査・決断・即実行できるように考えています。ご期待いただければと考えます。

 

SWOT分析

プラス要因 マイナス要因
強み(Strength) 弱み(Weakness)
現在借り入れがなく財務体質がよいです

代表が情報を多く集めている

資源が十分あります
後継者がいて新しいことに対応できます 
役員が親子で行動しやすい

社内のコミュニケーション能力が劣ります

需要地までの距離がありコストがかかる

ダンプカーの運転手が高齢化している

機会(Opportunity) 脅威(Threat)
新しい事業に投資しやすい
借り入れしやすい
近隣の砕石業者が安売り競争をすること
搬出する道路幅が狭い
リサイクルの業者が増える事
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